羅王のプロフィール:まったりとラク〜に生きてきましたぁ(^王^)ノ〜

まったりアザラシ君たち と言えるほど平穏な人生ではなかったんですけれど・・・(;^王^)
このページは以下の順で書かれています。
◆ 電車の運転士
◆ 塾の数学講師
◆ ドイツ語の通訳
◆ タロット占い師
◆ 教えるのが楽しい
◆ 新大阪オフィス
◆ 趣味と人柄
◆ 羅王の絵たち

 電車の運転士 & 通信大学時代

広島県呉市は戦艦大和を造った町で有名です。現在も駅裏には大和ミュージアムがあります。 第二次世界大戦中は軍港&造船+兵学校で栄え、今は過疎化が進み忘れ去られた地方の小都市。 私はこの町に生まれて18歳まではここで育ちました。 そして高校を卒業後に広島市内を走る電車の運転士になりました。ヒロデンという中堅の交通企業です。

 路面電車の運転士資格: 18歳で入社して20歳から電車の教習所に入れるので、それまでは車掌をしていました。 次は〜、終点宮島口で〜す。どなた様もお忘れ物のないようにご注意くださ〜い♪ とかマイクでアナウンスしていましたね。そして、20歳になったら本社ビルの一角にある 教習所に入り理論と実習をしてから路面電車の国家試験を受けます。 合格すると、市内を走るチンチン電車の運転士になれる、というワケです。 よく広島駅から紙屋町を通って宇品港まで走っていました。

 鉄道を走る電車運転士資格: また、ヒロデンには路面電車だけではなく、鉄道もありました。これは全く免許が異なります。 横断歩道を横切る市内のチンチン電車は軌道法という法律で、自動車と並行して走りますが、 郊外に伸びる宮島線は鉄道法で、こっちは踏切を通ります。一応、この免許も無料で取らせてくれるというので さらに半年教習所に通い宮島線の電車も運転していました。

よくこの電車を運転していました。

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 通信大学を始めました: そして、その二つの電車の免許を取得し終わり、一人前の電車の運転士として働きながら、 当時、慶応義塾大学が提供していた大学の通信課程に入学しました。働く学生でした。 人は苦学生と呼んでくれますが、それほどの苦労はありませんでした。特に 夏にはスクーリングと言って4週間ほど上京して授業を受ける機会があるのですが、 これがとても楽しかったんです♪、
ところで当時ヒロデンでは大学の学生たちがアルバイトで電車の車掌をしていました。時には 大学の卒業生の方も居ました。私は彼らを観察しながら、一体大学を出て何を得られるのだろう?と考えました。 4年間余計に勉強したからといって、特に知性の輝きを感じなかったんです。

 大学教育で残るものは?: 働きながら通信で大学の勉強を続けても、大学を卒業した時に何も残らないなら、 意味がない!と感じ始めていました。特に、私は親に費用を出してもらえる身分ではなく、 自分の時間とお金を使うのですから、ちゃんと見返りが必要です! さて、私が大学卒業後に残したいものとは何だろう・・・?  よし、じゃあ語学力にしよう!それも英語に、と決めました。これならずっと役に立つはず。 ところがこの決断が、後に恩師である宮下敬三教授との運命の出会いで、 ドイツ語に変わることになるのです・・・(^王^)v

 そして4回生目は退社して上京しました: 当時、大学で必須である毎年夏の4週間スクーリングには、有給休暇では足りません。 それで職場の上司から特別に無給休暇をもらっていました。当時の上司の方々のご厚意を受けて許可を頂きました。 なんともアリガタイ話です♪ だから、卒業後もずっとヒロデンに勤め続けるつもりでいたんです。 でも、この状況が変わります。22歳の初夏、母が他界したのです。 父は私が13歳(中2)のときにすでに他界していました。さらに母までも。。。 ああ、これで郷里との縁が切れてしまった。私はふるさとを失ったのだと痛感して、 慶應義塾大学の通信課程で提供されている、4年目を学部生と同じように上京して通学しながら卒業する コースを選択しました。そして、そのために心優しい多くの先輩や上司に恵まれていて、とても優遇されていた職場である ヒロデンを退社する決意をしたのでした。

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 東京時代:塾の数学講師

大学に通う傍ら、近所の塾で数学を教えていました。

 中学生の数学の講師:
私は数学と理科系だけは自信があったので、塾では中学生の数学と理科全般を教えていました。 ここで私は、嗚呼、教えるって楽しいなぁ〜と感じると同時に、それが自分に向いていると分かりました。 特に、当時の中学生が20歳を越えて再会したときに、「私があんなに数学ができたことは 後にも先にも羅王先生に教えてもらったときだけでした」と言われて、とても嬉しく思いました。

 大学では高校でのドイツ語の教員免許:
通信大学の過程では、英語もドイツ語もフルで単位を取得し、さらに高校でのドイツ語教員免許も取得しました。 まあ、当時の日本でドイツ語を教えている高校は全国で36校だけだったので、 到底そういう就職先は現実的ではありませんが・・・。

 大学院の入試は不合格・・・(((>_<):
そこで、よし、オレは大学の先生になれるかも?と考えて、大学院の修士課程への進学をするべく受験したのですが、 試験の結果は振るわず。英語もドイツ語も全く箸にも棒にも掛かりませんでした。

 そして妻と結婚してドイツへ:
おお、これではいかん!まあ、ドイツ語の先生は現実的ではないので、まずはドイツに行き、 現地で2〜3年滞在してドイツ語がペラペラになったらイギリスに渡り、 そこで英語をちゃんと習得してから帰国して、高校の英語の先生にでもなろう、と決めて、 まずは同郷で東京で同棲していた彼女(現在の妻)と長野県白馬村にある小さなチャペルで結婚式を挙げてから、 シベリヤ鉄道経由でドイツに渡りました。まだドイツは冷戦時代で東西に国境(壁)のあった時代でした。

有名なベルリンの壁が壊れたのは、それから約一年後のことでした。

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 ドイツ語時代:ドイツ語の通訳

ドイツで現地の観光ガイドやドイツ語の通訳をしていました。ドイツ語圏には通算21年間も在住していたので、 これまでの私の職業人生では最も長い職歴です。 最初は黒い森の山麓にある落ち着いた大学町フライブルクで一年間語学学校に通いました。 そしてそれからスイスでガイドデビューしたのでした。

 スイスのハイキングガイド:
ひと夏の間だけでしたが、標高3000m以上にある鉄道駅ユングフラウ・ヨッホへは 観光客を連れて50〜60回くらい登山列車で登りました。 そして、その後ウィーンを経由して長い間ドイツに滞在しますが、 スイスは何度も訪れる馴染のある国になりました♪  私の恩師である宮下敬三教授がスイス・オーストリア史という著書を書かれていますが、 先生が授業中に話されたことは大いに使わせてもらいました。
有名な三山で左からアイガー、メンヒ、ユングフラウです、

 ウィーンでウェイター:
もしも私の人生で低迷期とかウツ時代があったとしたら、このウィーン時代のことです。 10月〜翌年の3月と冬の間だけ住んだ都会ですが、特に寒い冬の夜は、華やかな催し物がある半面、 小さな路地に入り込むと、生者よりも亡者の方が多く徘徊しているのではないか? と思えるほど冬季は陰気な雰囲気の都市でした。まあ、夏に行くと明るく、盆地なのでとても暑いんですけど。 舞踏会とかコンサートには行きましたよ。私は蝶ネクタイを締めて日本食屋のウェイターをしていました。 毎夜、仕事帰りに煙草の煙がもうもうの場所でビリヤードをしていました。 羅王の人生で行き先の見えない行き詰まった時代でした。
王宮や離宮、国会議事堂や市庁舎などどれも立派な建物でした。これはその中でも特に有名なウィーンの国立オペラ座の内部です。

 ハイデルベルク大学:修士課程で中退
ドイツの大学は小中高と同様に1999年まで授業料がなかったんです!それまでは40年間学生だったなどという、 いわゆる「永遠の学生」と呼ばれる人種も存在しました。この大学の授業料有料化の波は多くの永遠の学生を追い出しました。
実は私もそれで追い出された口です(;^王^)

 自動車の普通免許: ドイツで普通免許を取得したので、同時にヨーロッパ免許も取得できました。 欧州のいいところ?は免許の更新がないことです!70歳の爺さんの 免許証明写真には18歳の青年が写っています。
おや、お孫さんはなかなか男前ですね。
は〜? これがオレだよ!まあ、確かに昔はモテたけどな♪
という感じです。

 ローテンブルク時代:
自営店が倒産・破産で瞑想三昧。ここで高次元への扉をくぐりました。

 北スペインの巡礼路:
カミーノ800kmを踏破。スペインが大好きになりました。

 パワースポット:
セドナでタロットに出会う。人生で出会うことに無意味なことは何ひとつありません。

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 大阪時代:タロットの占い師

8年前に帰国してからは、タロット占い師として働いています。

 大阪の占い館s出演: 現在、なんばCITYでもタロットなども講座を提供しています。また、依頼を受けて出張イベントも請けています。

 広島の地元での占いイベント: 羅王は広島県呉市の出身ですが妻の里は尾道の沖に浮かぶ島です。その縁で、 帰省がてら尾道や福山に占いイベントに出掛けることがあります。

 現在:教える方が楽しい

ん〜、どうやら私は占いも好きだけど、タロットを教える方が好きなのかもしれない。
 集中講座:終了しました。
 お試しコース:なくなりました。
 90分補講:そのままです。
 13ヶ月コース:なくなりました。
 オンライン講座:ラインビデオ通話やズームを導入します。

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 新大阪のオフィス

Studio新大阪という名前のビルです。新大阪駅の向い、徒歩3分のビルにオフィスがあります。 小さいけれども占いと少人数のタロット講座には十分です(^王^)

かつてホテルだったので一階ロビーも自由に使えるのがいいところで、トイレも一階奥に近代的なシャワートイレがあります♪  ロビーでの飲食は禁止なのですが、喫煙場所はあります
身体にいい野菜(831)と覚えて下さい。8階の31号室です。

地図で見るとここです!

住所は〒533−0033
大阪市東淀川区東中島1−17−5
Studio新大阪 831号室

歩道橋からビルを見ると
Studio新大阪
青いダイキンの広告が目印です。

 趣味と人柄

人柄って自分で自己宣伝するものかぁ〜(;@。@? と考えてしまうのですが、 一言でいうと、穏やかで温厚な性格・・・かな。 じゃあ、ま、趣味とか収集癖だけの紹介にとどめておきます。 趣味は、収集癖と同じで多いですが、現在進行中のものは多くはありません。まずは趣味から:

■ 水彩画:今一番はまっています。 50号くらいのサイズの絵を私の最大と考えて製作しようと思っています。 まずはヘタクソなので、ある程度上手になろうと風景のスケッチから入り、 今も水彩画で風景を描いていますが、出来上がると絵の印象がいつも平凡過ぎる感じです。 ドラマティックな絵を描こうと意気込んで描いたのに、結局はあまりインパクトのない絵になるという繰り返しです。 このガッカリの理由は、私に画才がないということか!とは分かっているのですが・・・。

■ ギター:オフィスのギター
高校卒業前に安物のクラシックギターを、そして、卒業して最初のボーナスで アコースティックギターを買い、誰にも習わないので上手にはならず、 当時は会社の同僚と手軽なバンドを組んで浜田省吾の歌を歌ったりしていました。 今は、演奏よりも、いつかギターを作ってみたいななどと夢想中??〜_〜)
 

■ 山歩き:20歳のとき初めて日本アルプスの縦走をしました。 それも一人だけで。どうも私は語学といいギターといい山歩きといい、さらにタロットといい 基本的に誰かに学ばず独学するタイプのようです。スイスでもハイキングガイドをしていました。 妻と出会ってからは一緒に日本で3000mの山を登ったりしました。
これは北スペインの巡礼絽カミーノを歩いている途中の羅王です

■ 写真:絵を描き始めるまでは、写真ばかりでした。 マミヤのRB6X7という中型カメラを持ち歩いていました。カメラを両手で胃の辺りに構えて、 上からスクリーンを見ながらピントを合わせる、あの旧い蛇腹式のヤツです! 21歳頃、ヒロデンでの電車をモチーフにした写真展では入選と佳作に選ばれ、 当時とても嬉しかったのを覚えています♪

■ 日曜大工:ドイツ人の男性は、 家の内壁を自分で塗るのは当たり前!日曜大工が出来ない奴は男じゃない! というわけでドイツに居た頃は、大工道具一式と電動ドリルとか電動ノコとかは当然のように持っていました。 今は、そういう場所もないし、日本は材木そのものが高価です。

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次は収集癖:

■ 水晶たちなど鉱物:水晶のみならず、 放っておくと道端の石ころも集めかねない!なので、私が石を買おうとすると妻がいつも、問い質します。 えっ?それを一体どこに置くつもり?引き出しの奥にしまって置くだけなら買う必要ないでしょ・・・確かに(;^王^)

■ 万年筆:一時期、土産物屋で有名な万年筆メーカー:モンブランを扱っていたので、 いくつか揃えてしまいました。

■ 外国のコイン:今欧州の国々のほとんどは、ユーロに通貨統合されてしまいましたが、 かつてはどこも通貨が異なり、出国すると紙幣は両替できても、コインは記念品として残ってしまうのが常でした。 それがジャラジャラとあります。妻は誰かにあげるか、捨てたら?と言いますが、捨てたくな〜い!
まあ、確かにもう価値はないのですけど・・・。

■ スタンプとハンコ:スタンプやハンコが大好きです。多分、妻が引き止めなければ 次々と何かの用途を思い付いては、そのスタンプを注文していました。それで今はもう使ってないけれど、かつて 買ったり注文したりしたスタンプがいくつもあります。私にとっては今使っている自分の印鑑ともう用途のないハンコたちとの 気持ち的には区別はありません。つまり捨てたくないんです・・・(;^王^)それだけではなく、今度は自分でもハンコを 製作してやろうと思っています。篆刻(てんこく)というんですね。調べて初めて知りました。ゴム印も嫌いではないですが、 やはり、石に刻むのがいいですね。ただあの消しゴムハンコは頂けません。いえ、作品としては素晴らしいものがちゃんとあるんです。 それは知っています。でも、私の嗜好として印材は石の方が好みです。

■ 食べた植物の種:変わった性癖なのですが、散歩やハイキングの途中で収穫した種や、 食べた後に残る果物や野菜の種を、なぜか捨てることができません。おお、この小さな粒に必要な水分と栄養素を与えると いつかまた同じ実を付けるのか、と思うと不思議で仕方ありません。というわけで食べた果物の種はほぼ100%洗って、乾燥させてから 紙の袋に日付を書いて残します。植えて育てるのか?というと・・・そんな場所はないし、時間もありません。 で〜も〜なぜか集めてしまうのです。ま、純粋な収集癖というヤツですかね・・・(^王^)v
左からカボチャの種。アボカドの種。ハッサクの種です。

■ 辞書・辞典類:ドイツ語や英語の辞書、百科事典類が大好きです。 まあ、今は知りたいことはネットの検索で出て来るので、本などは時代遅れなのでしょうけれど。 当時20万円くらいするドイツの巨大な百科事典22巻を買いたかったのですが・・・はい、そうです。 妻に反対されました。私のは収集癖なのであって、有効利用するのが目的ではありません。 並べて眺めるのが主目的です♪・・・反対されて当然ですか?

■ 羅王の絵たち:

タイトルをクリックするとその絵に飛ぶようにしました。
◆ 南仏の菜の花畑
◆ 北海道清水町の雪景色
◆ チベットの羊たち
◆ ErnstGrillhiels氏の模写+菜の花
◆ ドイツの村とタンポポ
◆ 白樺林の模写
◆ 朝顔
◆ ヴェネツィア
◆ 水軍の海
◆ 九重高原のコスモス
◆ シオン城
◆ 菩提樹の噴水
◆ トスカーナで昼食を
◆ ホテルの厨房
◆ 湖水地方の農家
◆ ガクアジサイ
◆ アイルランドの丘陵と紫陽花
◆ ホテルから見たローテンブルク
◆ コッツウォールズの塔

■ 南仏の菜の花畑:
ならざき先生の「南仏の菜の花」を2020年、適当に模写したものです。 実物ではなくネットでかなり解像度の悪い画像を元に描いたので 細かい部分だけではなく、空とか屋根の色などいろいろと違っています 。特に菜の花畑が傾斜してしまっていますが、オリジナルは 平地に畑があります。。。F6

■ 北海道清水町の雪景色: これは2021年1月ならざき先生がネット画題を出されたときに描いたものです。F8

■ チベットの羊たち: ネットで可愛い羊たちを見つけのでちょっとアレンジして描いてました。この羊たちは多分毎日この チベットの高山を登っているんだろうなと思うと楽しくなります。F6

■ エルンスト・グリルヒールズの模写と菜の花: 2021年春。ドイツ人の水彩画家エルンスト・グリルヒールズ氏の作品を拝借して、 その前景一杯を菜の花にしました。なかなか面白くなったかな。F6(売却済)

■ ドイツの村とタンポポ: 2021年5月:村の前景にタンポポを描いてみました。習作。

■ 白樺林の模写(一部): ネットで魅力的な水彩画を見つけたので、その下半分を真似て見ました。 木立の影が曲がってしまって凍った池が傾いて見えますが、まあそれ以外は 思ったよりも成功したかな〜。F6

■ 朝顔: 習作:6月頃に朝顔と朝露を描いてみました。2021年8月5日アップ。


■ ヴェネチア: イタリアのヴェネチアにある有名なサンマルコの船着場から見て、 南東の沖合に浮かぶ島を描いてみました。M6号。サン・ジョルジョ・マッジョーレ島といいます。 2021年11月10日アップ。


■ 水軍の海: 妻の里である瀬戸内の因島は、その昔村上水軍の本拠地でした。 水軍と言ってもヨーロッパのバイキングのように近隣の町々を略奪して焼き払うという 盗賊団ではなく、水上交通や貿易支配し、その時々に大名と共闘するなど、今でいえば 瀬戸内海の海軍と言えるでしょう。どちらにしても海賊のみならず小大名を脅かす存在でした。 この絵は因島から真西方向を眺めた構図です。


■ 九重高原のコスモス:

ならざき先生がネットで出された画題を描いてみました。 季節は秋なのに中景の緑が明るすぎて、春色になりました。2022年2月22日アップ。

■ シオン城:

スイス西側のレマン湖畔に建つ中世のお城「シオン城」です。本当は当時のコンクリートのような色で 薄い褐色です。わざと真っ白に描いてみました。2022年3月ならざき大阪水彩講座の作品展に出した絵です。 F2サイズと小ぶりです。(売却済)

■菩提樹の噴水 :
2018年の年賀状に使った絵です。2022-6-21夏至。

■トスカーナで昼食を :
「ティファニーで朝食を」という有名な映画がありますが、 あれの昼飯バージョンを描きました。イタリアのトスカーナ地方で 有名な都市はもちろんフィレンツェですが、多分ここはその近くの 山の上にある街シエナではないかと思います。2022-10-13。

■ホテルの厨房 :
珍しくモノクロです。それも墨で描いてみました。基本的に風景画がメインで 人物はあまり練習してこなかったので、なんだかマンガチックになってしまいました。 とはいえ、風景画の通行人とかでも点景として人物は登場するし、もうちょっと練習しようかな などと思うこの頃です。20230119

■湖水地方の農家 :
ならざき先生の講座で出た画題です。湖水地方のウィンダミアという場所にある農家なんだそうです。 今回は森や木々や牧草など似たような緑をいかに描き分けるかという課題でしたが、あんまり成功していません。 イギリスは旅をしていても建物も景色もシンプル過ぎると感じますが、絵に描くとなるとそのシンプルさが とても助かります。2023-4-26

■ガクアジサイ :
このガクアジサイは以前にも描いたのですが、今ならもっと上手く描けるかなと再チャレンジしたものです。 でも思ったように行かなくて(特に花の中心部分が)、今のところはこんな感じです。また時間を置いて再チャレンジします。

■アイルランドの丘陵と紫陽花 :
かつてアイルランドを旅行した時に撮った写真を元に描きました。これも以前一度描いたのですが、 あまりにも不満足すぎてリベンジです。ならざき先生から丘陵の黄色味を少し抑えて、 手前の紫陽花に紫トーンを薄く入れると全体のバランスが整うでしょう、とアドバイスされていますので、 また次の機会に!

■ホテルから見たローテンブルク :
これも20年以上前にスケッチしたものを、もう一度ちゃんとした水彩紙に描き直してみました。 当初のドラマティックなスケッチとはかなり異なり、落ち着いた感じになってしまいましたが、 これも悪くないと思ってます。(2023−08−09up)

■コッツウォールズの塔 :
先日(2024年2月16日)ならざき先生の水彩画講座に参加して描いた絵です。 この辺りは石を積んで隣の牧草地との境界に使っている景色をよく見かけます。 前景の石の質感を出すのがむずかしくて、塗らずに放置しました;^^)。 ヒツジたちと奥の湖とその対岸は私が勝手に描き入れたモチーフです。 全体に涼しい秋らしい色にしようとは思っていました。 私にしては画面全体の印象がちょっと暗くなってしまった気がします。

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和装の羅王

和装の羅王 和装だと落ち着きが出るけど、実際に私が感じている「感覚年齢」よりも年を取った感じ(;^王^)

小ブロックの目次

ハイデルベルク

もっとも長く住んだドイツ最古の大学町ハイデルベルク 21年間のドイツ語圏滞在の中で最も長い時間住んでいた町がハイデルベルクです。 この画像はアルト橋に向かう「Steingasse」という通りです。

ドレスデンの聖母教会

ドレスデンの聖母教会 戦後の復興建築物の中で、パズルのように出来るだけ元の素材をあった場所に戻すという復元方法のせいで 有名になったドレスデン聖母教会。夕日に映えてきれいです。

チェコの世界遺産の村

チェスキー・クルムロフ チェコの首都プラハも好きですが、ボヘミア地方にあるこの世界遺産の村チェスキー・クルムロフも可愛い町です。 川はエルベ上流のモルダウ川です。この後首都プラハへと下ります。

ポンペイの遺跡

ポンペイの遺跡 ポンペイの遺跡はナポリの隣で、もちろんベスビオス火山の麓。 西暦の紀元79年に噴火して、その火砕流で一瞬で廃墟になった遺跡です。

アマルフィ―海岸

アマルフィ―海岸の町・ポジターノ ソレントの海岸を南側に回り込むと美しいアマルフィ―の海岸線です。その一番大きな村がこのポジターノです。

毘沙門天の会

毘沙門天の集いです 占い師でありカウンセラーでもある毘秀先生と飲み会になると、いつもヨーロッパの音楽や歴史の話に花が咲きます。 特にクラシック音楽に関する造詣は深いです。毘秀先生は画面の左奥です。

魔女会

魔女会 占い師の方々+のちに占いイベントを主催する女社長の集いで、魔女会と称しています♪ この写真を撮影している占い師の魔女先生は、ちゃんと窓ガラスに映っています!


最近の羅王


すぐに調子に乗るタイプ
( ^ω^)・・・です。

12弦ギター

かなりポンコツで音が悪いです。。


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